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アレフ代表野田成人生い立ちが壮絶すぎた!

野田 成人(のだなるひと)Aleph(アレフ)旧「オウム真理教」の元代表だ! そんな彼の生い立ちはどんなものなのだったのだろうか?
2018/07/08 UPDATE
 
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野田成人とは

野田 成人は、Aleph元代表。ホーリーネームはヴァジラティクシュナーで通称はVT。省庁制が採用された後は、「車両省大臣」となった。 現在は脱会して宗教活動から離れ、ホームレス支援活動を行っている。

野田 成人

誕生 1966年11月15日

兵庫県

ホーリーネーム ヴァジラティクシュナー

ステージ 正悟師

教団での役職 車両省大臣

後にアーレフ代表

入信 1987年

関係した事件 薬事法違反事件

桃源クリーム事件

判決 懲役1年6ヶ月(執行猶予5年)

野田成人が代表のアレフとは?

Aleph(アレフ)は、2000年2月4日に発足した宗教団体。オウム真理教からアレフと改称して発足し、2003年2月にアーレフに改称、さらに、2008年5月にはAlephに改称した。なお日本国内では、宗教法人として認証をされていない。



オウム真理教事件の後、法人としてのオウム真理教は破産し、破産管財人からその名称の使用を禁止されたために、「アレフ」、後に「アーレフ」に改称し、さらに「Aleph」(日本語での発音はアレフ)に改称した[1][2][3]。アーレフないしアレフとはヘブライ文字の第一文字 א の名称で、「一から出直して再出発するためこの名称とした」と説明されたが、後に警視庁の押収資料から麻原彰晃自身が逮捕される前に決定していたことが判明した。




団体名称は「Aleph」であり、「オウム真理教」の名称は使用していない。しかし公安調査庁は、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)の観察処分の対象団体を正式には「麻原彰晃こと松本智津夫を教祖・創始者とするオウム真理教の教義を広め、これを実現することを目的とし、同人が主宰し、同人及び同教義に従う者によって構成される団体」としており、これを略して「オウム真理教」と通常は記載している。




これには、アーレフないしAlephは完全に含まれ、その外の分派も含まれる可能性が高い。2007年3月にアーレフを脱退した上祐史浩が同年5月に設立した「ひかりの輪」についても、公安調査庁は団体規制法に基づく観察処分対象としている。上祐のアーレフ脱退以降は、アーレフないしAlephの活動を特に区別する場合、公安調査庁は「オウム真理教主流派」、「教団主流派(反上祐派)」といった表現をもちいている。2010年10月には新拠点と目される東京都足立区で足立区反社会的団体の規制に関する条例(アレフ規制条例)が制定され、監視対象となっている。




また、マスコミでは現在でも「オウム真理教(アーレフ)」「オウム真理教(アレフ)」のように、「現在はアーレフに改称」などと注釈をいれつつオウム真理教を前面に出して報道している。




前述のように団体規制法とそれによる公安調査庁の観察処分を前提として、アーレフないしAlephの活動をオウム真理教の活動と報道することが主流となっている。




一般論としてはマスコミが特定の団体などの固有名詞について旧名称のまま報道することはほとんどないため、極めて例外的ではある。『A』など教団に関するドキュメンタリー作品を発表しているドキュメンタリー監督の森達也は、マスコミは言葉の使い方に作為や意図があることに対して無自覚になっていることが一番危険だと指摘している

野田成人生い立ち

白陵中学校・高等学校を経て、1985年、東京大学に進学。3年次に東京大学理学部物理学科に進むと同時に20歳でオウム真理教に入信。



のち大学を中退。麻原の著書に書かれていた解脱や輪廻という考えに共鳴。戦後の教育や思想からは消えた古来の日本の仏教にあった神仏習合や生まれ変わり、漠然とした見えないものに対する信仰といったものへの傾倒の内に麻原の理論は明確と感じる。



在学中にはノーベル物理学賞を目指していたものの、ある研究者にだけはどうしても勝てないと感じ、苦痛に感じていたところ麻原の思想に出合い絶対的なものにすがる思いから、1987年に入信、同年10月に出家。オウムの兵器開発計画に携わる。省庁制施行後は車両省大臣。


1995年の地下鉄サリン事件の3日前に正悟師に昇格。この時の尊師通達で一挙に十数名が昇格したが、その中には林郁夫・小池泰男・中川智正・土谷正実・井上嘉浩等、教団の凶悪犯罪に深く関わったものが多かった。だが、野田の関わった亀戸異臭事件などの生物兵器計画や核兵器開発計画は実害が無かったので罪に問われることは無かった。


1995年の省庁制廃止後は、長老部のメンバーとなり教団を運営した。「アーレフ」になっても幹部として留まり、教団のパソコン事業を統括した。



2000年1月24日、東京拘置所面会所前に止めた車の中にいた所を暴力行為等処罰ニ関スル法律違反容疑で逮捕されたが、すぐに釈放された。



2004年7月6日に「桃源クリーム事件」(都道府県知事から医薬品販売の許可を受けていない医薬品を720人に販売した事件)で薬事法違反容疑でまた逮捕される。裁判では懲役1年6月、執行猶予5年の有罪判決を受けた。



アーレフ代表の上祐史浩の脱会直前の2007年3月1日に、2月10日の役員会で上祐の後任の代表と決議され、その決議に代表に就任したと教団内部向けに発表し、その後すぐマスコミ各社に向けて同様の内容を発表した。



また、代表派は、アーレフ脱会の報道発表資料において上祐によって送付された代表者出家信者一同の脱会通知メールの内容を公表していて、その宛先は「宗教団体・アーレフ 新代表役員 野田成人 殿」となっている[5]。 一方、アーレフを主導するA派は、野田の代表就任について、「法的有効性について極めて疑わしい」としていることを広報部を通して公表している。


野田自身も、A派が野田の代表就任を認めていないこと、教団運営上の実権を有していないことを認めている。



2009年3月9日付で教団から除名されたことを2009年3月19日の会見で明らかにした。


理由は、麻原が処刑されなければ洗脳は解けないんじゃないか、という内容の文章をブログで書いたことであった。その後は、自ら立ち上げたNPO団体みどりの家族代表として、ホームレス支援活動を行い、事業の収益の一部をオウム真理教事件被害者賠償に回している。また事業により、2013年には固定資産評価額が1億円を超え、これも将来的には遺言によりオウム真理教犯罪被害者支援機構に遺贈されるとする。




1995年に発生した警察庁長官狙撃事件については、当時の状況からオウム真理教の関与が疑われても仕方ないとしつつも、他の事件と違い教団内で噂が広まらなかったことから、オウムの犯行とする警視庁の所見に懐疑的な見解を示している

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