出典: ja.wikipedia.org
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吉原遊廓とは、江戸幕府によって公認された遊廓である。
あまり知られていない事実として、最初期の吉原はおそろしく格式が高かったとされている。
庶民の男性など、店に入れすらしなかった。
吉原のシステムでは、客は目当ての遊女と男女の仲になるためには最低3度は通わねばならなかった。
しかも、一度指名したら別の遊女に鞍替えは御法度。
現在のホストクラブと同じく、永久指名制である。
もし遊郭に「浮気」がばれたら、手ひどい仕置きが待っていたという。
もちろん、客に、である。
そんな遊女であるが、一体一日をどのように過ごしているのであろうか?
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吉原の妓楼は昼見世(ひるみせ)、夜見世(よみせ)と1日に2回営業であった。
そう考えると、それ以外の時間、遊女は好きに寝て好きに遊んでいられるような
イメージがあるが、実際にはそうではない。
現代で言えば、ブラック企業レベルの激務で彼女達は働いていたのだ。
まず朝。
江戸の人々は朝が早いため、吉原に泊まった客は大抵夜明け前に妓楼を出る。
この時、次の約束を取り付けて客を見送ったあと、遊女は二度寝をする。
二度寝から起きて、朝風呂→朝食となり、妓楼の本格的な朝が始まるのだ。
起床してからも低血圧だからと布団の中でだらだらしてはいられない。
起床した遊女は正午ころに始まる昼見世にそなえ、化粧や髪結いなどの身支度をする一方で、
営業に来た商人の相手をしたり、手紙を書いたりする。
(ここまで聞いても、血の滲むような努力だと思う)
「居続け」の客がいる場合は連泊してもらえるよう、言葉巧みに誘ったりもしたのだ。
この時間帯に上級遊女の雑用をする見習いの禿(かむろ)たちは手習いなどをする。
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昼見世が始まり、終わるのは大体午後4時頃。
それから遊女はやっと遅い昼食をとり、自由時間となる。
もっと休みたいはずだが、日没と同時に夜の営業である夜見世が始まる。
遊女は張見世(はりみせ)という通りに面した座敷で格子の内側に遊女が並ぶところに
居並び、客がつくと2階にあがる。
時には複数の客の相手をしなければならず、夕食は1階で慌ただしくすませた。
妓楼の営業は午前2時頃までだが、遊女の寝床の仕事に終業時刻はなかった。
ほとんど休んだ気もしないままに働き詰めである。
信じられない程の超過密スケジュールである。
これを江戸文化評論家の永井義男氏が、遊女の1日のタイムスケジュールとして
まとめたものが次のとおりである。
現代であれば、即見切りを付けて辞めるか、経営者に直訴したり慰謝料の請求など
訴訟問題にまで発展しそうである。
しかし、遊女たちは黙々と仕事を続けた。
吉原の遊女を一般に花魁(おいらん)と呼ぶ。
この花魁は、上級遊女に対する敬称である。
一方で下級遊女は新造(しんぞう)といい、花魁とは呼ばない。
遊女の最高位は太夫(たゆう)と呼ばれ、美貌はもとより幅広い教養も身につけており、
気位も高かった。
現代の女優、タレント、モデル、などを合わせた存在が太夫だった。
宝暦年間(1751〜1764)に吉原は営業方針を大衆路線に切り替え、
客の中心は庶民となった。
だが依然として、貧乏人には無縁な世界だったことに違いはないのだが。
この時期、太夫という呼称はなくなり、最高位の遊女は昼三(ちゅうさん)と呼ばれた。
つまり、時代小説や時代劇に描かれる吉原には太夫は存在しなかったことになる。
宝暦期以降の吉原の遊女の階級はつぎの通りである。
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ただ客の相手をするだけではなく、勉学や教養などにもぬかりがなかった遊郭。
もの凄い時代があったものだと感心するほかない。