旧皇室典範は1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)の発布と同じ日に制定された。敗戦に伴い改めて制定された現行の皇室典範も1947(昭和22)年5月3日、いまの日本国憲法と同じ日に施行されている。しかし、いずれの典範にも退位の規定はない。明治にも戦後にも、退位の是非は議論されたが、最終的に退位は認められなかった。
旧典範は、江戸時代までおおまかな慣習や先例を踏まえて伝えられてきた皇位継承の手続きを基礎としつつ、欧州の王室の制度を採り入れて制定が進められた。
制定過程で退位についてはどのような議論が進んだのか。1880年代、明治憲法などの起草にかかわり、法制局長官などを務めた井上毅(こわし)は「天皇が重患により大位(たいい)をゆずるのが適切でありやむを得ない場合」の譲位を認めるべきだと論じた。
しかし、初代首相の伊藤博文(ひろぶみ)は1887(明治20)年の検討会議でこう述べ、退位を認める案を一蹴した。「天皇が終身大位にあるのはもちろんである。ひとたび践祚(せんそ)(位につくこと)された以上、随意にその位をのがれることはもってのほかだ」
1970年代、神社本庁などでつくる「元号法制化実現国民会議」が運動を展開。全国の地方議会で元号制支持決議が相次ぎ、79年に元号法が制定された。「皇位の継承があった場合に限り改める」とする一世一元制が法制化された。
元号法を制定した大平内閣は79年、①国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること②漢字2字であること③書きやすいこと④読みやすいこと⑤これまでに元号またはおくり名として用いられたものでないこと⑥俗用されているものでないこと、と定めた。
天皇陛下が意向を示した「生前退位」。実現すれば江戸時代以来、約200年ぶりとなる。陛下は数年前から繰り返し周囲に思いを伝えてきたとされるが、どのような背景があるのか。今後の課題や展望は。歴史や法制度をひもとき、考えてみた。
生前退位を実現するには、皇室典範改正などの法的措置が必要だ。皇室典範第4条には「天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに即位する」とあり、皇位継承は天皇が亡くなったときしか想定されていない。
旧皇室典範は1889(明治22)年、大日本帝国憲法(明治憲法)と同時期に制定。伊藤博文らは「天皇が終身大位にあるのはもちろんであり、随意にその位をのがれるということはもってのほかである」と論じ、「大元帥」で「統治権総攬(そうらん)者」でもある天皇の終身在位のしくみを作った。
戦後、象徴天皇制を掲げる現憲法制定に伴い、法学者や官僚らが現行の皇室典範を議論した際は「天皇が自ら欲した場合は事情によって(退位を)認めることが必要ではないか」との意見も出た。だが「天皇の責任を果たすため、終身その位にとどまることが必要」「退位を認めると上皇による弊害など混乱の恐れがある」などとして盛り込まなかった。退位の自由を認めると不就任の自由も認めることになり、天皇制の存立が揺るがされる、との意見も出た。
こうした考え方はその後も受け継がれた。1984年4月、80歳を超えた昭和天皇の生前退位について国会で質問があり、山本悟・宮内庁次長(当時)が、皇室典範に生前退位の規定がない理由について①退位を認めると上皇や法皇などの存在が弊害を生ずる恐れがある②天皇の自由意思にもとづかない退位の強制があり得る③天皇が恣意(しい)的に退位できるようになる、などと答弁している。
また現行憲法で天皇は「国政に関する権能を有しない」と定められていることからも、天皇が自身の意向で生前に退位することは政治的行為にあたるのではないかとの議論もある。
コメント