北海道から沖縄までの広範囲で、グラウンドで熱い戦いを繰り広げる高校球児たちの背中を見て、いつか自分たちもこのグランドへ!と夢を抱く子供たちが真っ黒になってボールを追っかけています。そんな子供たちのために、高野連が決めたこのドリームシートの存在でもっと広く伝え、一人でも多くの野球少年が本当の聖地に足を運べるようなシステムを期待します。
北海道から沖縄までの広範囲で、グラウンドで熱い戦いを繰り広げる高校球児たちの背中を見て、いつか自分たちもこのグランドへ!と夢を抱く子供たちが真っ黒になってボールを追っかけています。そんな子供たちのために、高野連が決めたこのドリームシートの存在でもっと広く伝え、一人でも多くの野球少年が本当の聖地に足を運べるようなシステムを期待します。
甲子園球場で行われる春の高校野球選抜大会と夏の全国高校野球選手権大会は野球少年たちの夢でもあり、プロ野球へのステップでもあります。多くの選手が甲子園を経験してその経験を生かしプロ野球やノンプロ野球、メジャーリーグで活躍しています。少年野球を志す少年と共に指導者もその親にとっても甲子園は野球の聖地です。その聖地を大人のエゴで汚すなど許さん。
戦後初の沖縄代表として参加した首里高校の選手たちが持ち帰った貴重な「甲子園の土」は没収、海に捨てられてしまった。と聞く。1958年には第40回記念大会として、大会史上初めて全都道府県に沖縄の代表校を加えた47校で開催された当時の沖縄は日本返還前で、アメリカの統治下にあった。首里高校は1回戦で福井の強豪、敦賀高校とぶつかり、奮戦むなしく3-1で敗退した。ナインの数人がビニール袋に詰めて甲子園の土を船で持ち帰ったが、那覇港で彼らを待っていたのは法の壁であった。アメリカの法律では甲子園の土は「外国の土」ということで、植物検疫法に抵触して持ち込み不可能だったのだ。
岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山 などの土をブレンドしていますが、毎年決まっているわけではありません。 砂の産地の変遷 としては、甲子園浜及び香櫨園浜社有地 、瀬戸内海産の砂浜などが主要産地です。大会を開催する時期により黒土と砂の割合は、春は雨が多いため砂を多めに、夏はボール ( 白球 ) を見易くするため に黒土を多くブレンドしていと聞いています。そしてグランド整備を任されているのが阪神園芸だそうです。
プロ野球、ノンプロ野球、大学野球そして高校野球、その底辺にある少年野球達の聖地が甲子園です。その聖地を大人のエゴで自由にするなんてそんな大人であることは子供たちに恥ずかしいと思いませんか?
元巨人軍監督の川上哲治(打撃の神様)が1937年の第23回大会で熊本工業の投手だった時に甲子園の土を持って帰ったのが始まりという説があります。戦前からこのような風習が残っていたことになります。今ではなんと驚くことにこの甲子園の土は販売されていて買うことが出来るのだそうです。
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