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東日本大震災(3.11)津波で逝った母が娘を救った最後の言葉に涙する…

東日本大震災(3.11)から7年…津波で逝った母が娘に残した最後の言葉が多くの人の心に響いた
2018/03/10 UPDATE
 
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東日本大震災から7年…津波で母を亡くした娘が思いを語る

東日本大震災から7年が経とうとしています。

現在も復興復旧が続けられている。

この災害で死者が1万6000人近くに及んでしまった。

その90%震源に近い岩手、宮城、福島の3県である。

そして、ある親子もこの災害の犠牲者となってしまった。

まもなく東日本大震災から丸7年を迎える。警察庁発表では同震災による死者は12都道県で1万5893人におよぶが、その99.5%は震源に近い岩手、宮城、福島の3県で発生している。

現在は塩釜市内の住宅街にある

11階建てのマンションに1人の女性が住んでいる。

当時、石巻市に親子で住んでいた。

2011年3月11日あの日、津波は実家を襲った。

その津波で母と父を亡くなった。

仙台駅から沿岸部・石巻駅を結ぶ仙石線に乗り込み約25分、塩釜市内の住宅街にある11階建てのマンションの一室に高橋匡美(きょうみ)さん(52歳)は住んでいる。

生まれは石巻市南浜町である。2011年3月11日の津波は実家を襲い、母の博子さん、父の悟さんが亡くなった。

娘は酷く落ち込み、

夢では黒い津波が押し寄せる悪夢の連続だった。

また、テレビをつければ毎日の様に

亡くなった方の報道が流され直ぐに消した。

せめて夢の中で親に会いたいと願う日々だったと話す。

せめて夢のなかで両親に会うことを望んだのだ。夢はいつも実家にいる両親のもとを黒い津波が塊のように押し寄せてくるところで終わった。

起きればテレビから、被災地のボランティアに入る芸能人や避難所の様子が流れてくる。一家が何人も亡くなったという人が報じられる。
母親が残した最後の日記
(ここで改ページします)

あれから7年が経ち母を亡くした娘はこう話している。

「きっとあのときに母は亡くなったんじゃないかって」

「死因は溺死ということになっているけど、母の遺体はきれいなままだったから」

「もしかしたら、津波による低体温症だったんじゃないかなって思うんだよね」

「私はいまでも後悔していると思う。もし、あの日のうちに石巻にいけたら。もし、もっと早く駆けつけられたら……」と後悔してもしきれない。

《息子と猫とくっついてリビングに寝ていたのね。そこで、ろうそくの光を見ながら、うとうととしていたとき、野球のボールくらいの大きさの光が目の前にあらわれて、弾けたの。

後から、思ったのね。きっとあのときに母は亡くなったんじゃないかって。死因は溺死ということになっているけど、母の遺体はきれいなままだった。

もしかしたら、津波による低体温症だったんじゃないかなって思うんだよね。私はいまでも後悔していると思う。もし、あの日のうちに石巻にいけたら。もし、もっと早く駆けつけられたら……》

娘は今でも大切にしているものがある。

それは、亡くした母親の日記である。

そこにはこう書かれている、「おとうさん、居ねむりしているそばで編物している。

一見、平和だなー。なにも今とりあえず悩みはないから平和で幸せなのだ!」と

なんでもない日常が平和で幸せ、彼女は今でもその言葉を胸に生きている。

「一生、ずるずる引きずる」悲しみと向き合うときだ。それでも、変化はある。母はこんなことを書いていた。

「おとうさん、居ねむりしているそばで編物している。一見、平和だなー。なにも今とりあえず悩みはないから平和で幸せなのだ!」

なんでもない日常が平和で幸せである。母は、最後にそう伝えていた。自分が伝えたいことのすべてが詰まっている。そんな言葉だと思っている。
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