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貧困を脱した35歳の女性が絶対に伝えたい思い 「IT業界では学歴は関係ない!」

経済苦、母の病気、性的虐待、風俗。逃げても逃げても、彼女を待っているのは深い闇だった。
2016/07/20 UPDATE
 
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「貧困からはい上がった立場として、現状貧困に苦しむ方が何か希望を持つ
きっかけを作ることができれば」

東洋経済オンラインにメールを送った35歳の女性。

彼女が、「貧困に喘ぐ女性の現実」を連載するノンフィクションライターの
中村淳彦氏に語った、幼少期から貧困を抜け出すまでとは。

年収は500万円

横浜の中心である横浜市中区、JR駅徒歩3分ほどの新築マンションに平田綾さん(35歳、仮名)は住んでいる。横浜の一等地にある新築分譲マンション、DINKs向けの1LDK、価格は2800万円と高額だ。平田さんは貯金500万円を頭金にして、変動金利の35年ローンを組んだ。現在は毎月6万円台の住宅ローンを支払っている。

「持ち家を欲しかったのは、児童養護施設育ちで自分の家にあこがれがあったことが理由です。定住できる場所が欲しいという気持ちが強かった」

平田さんはバツイチ、現在はシステムエンジニアとして外資系の企業に勤める。年収は500万円ほど。引っ越して1年のマンションはとにかくきれいで、最新型のキッチンやLED照明機器が設置されている。部屋の片隅には数台のベースギターが並べてあり、ポールマッカートニーも愛用したリッケンバッカ―のベースギターは25万円を超える極めて高価なものである。

平田さんは貧困家庭で生まれ、小学校6年生から児童養護施設で育ち、ゼロからのスタートで絶望的な貧困から抜けだした女性である。

持ち家に対する彼女の憧れ。

その根底には、彼女の生い立ちが関係しているのかもしれない。

お金がなくていつもひもじい

「両親は物心がつく前に離婚して、母親と祖母と私の3人暮らしでした。家は小さな木造アパート。収入は母親のパートと父親からの養育費くらい。詳しいことはわからないけど、家計は火の車状態だったと思う。おカネがなくて3日くらいなにも食べなかったとか。子供の頃にそういう記憶があります」

平田さんは東洋経済オンラインにメールをくれた女性だ。“私は過去(子供時代~20代前半)に貧困を経験した立場です。おこがましいですが、貧困からはい上がった立場として、現状貧困に苦しむ方が何か希望を持つきっかけを作るお手伝いができれば幸いです”と書いてあった。見た目は年齢よりだいぶ若く、過酷な貧困を経験した経歴は、外見からはわからない。
「母は統合失調症でした。私が小学校に上がった頃から幻聴や被害妄想の症状が出て、外に対しても“監視しているのか”と、異常なことを日常的に言い放つようになって、小学校では私に対するイジメが始まりました。母親は平気でクラスメートに対して“あんたのお母さん人殺しだから”とか叫ぶ。ヤバイです。当然、いじめられる。小学校6年のときには、もう学校に行けなくなりました。不登校です」

貧困に加えて、母親の病やいじめ。

まだたった小学6年生の女の子がなぜここまで追い詰められるのか。
その後彼女は、母親と離れて暮らすこととなる。

児童養護施設に入所

母親は不登校を心配する担任が訪ねると、鬼のような目をして「人殺し!」と追い返した。娘を守るという大義名分で、母親公認で小学校へ行かなくなった。母親はパートも解雇になった。不登校の小学生、無職の母親、認知症の祖母の3人家族が狭いアパートに閉じこもる生活が10カ月間ほど続き、小学校卒業間際、平田さんは突然やって来た児童相談所に保護された。

「母親は警察と役所の人に捕まって精神病院に強制入院になって、私は児童相談所の一時保護、祖母は特養老人ホームに措置入所になりました。母親は何も頼るものがなかったのでしょう。当時、今の私と変わらない年齢で、そういう状態の親と子供を抱えたら、その負担感は想像もつかない。結局、私は児童相談所から児童養護施設に送られて、そこで暮らすようになりました」

児童養護施設は都道府県に590施設あり、乳児から18歳までの2万7468人の児童が入所する(2014年厚生労働省調べ)。平田さんは大舎制と呼ばれる50人近くがいる大規模施設に入り、同じような境遇の子供たちとの共同生活となった。

「中学校は休まずに通学しましたけど、もちろん普通の家庭みたいな自由はないです。親がいなかったり、虐待された子供が集まるので、非行に走る子がすごく多い。私は非行には走らなかったけど、ひねくれていました。起床時間、消灯時間、あと、この時間は必ず勉強とか規則がたくさんあって、反発して施設を抜けだしたり、万引きしたり、学校や施設で先生とトラブルを起こす子供は本当にたくさんいた」

小学校6年生で家族がいなくなり、頼れる親族は誰もいなくなった。平田さんは生涯孤独な身、ということを自覚した。施設では「みんなのお父さん、お母さんになる!」と熱く接する職員はたくさんいたが、「他人なのに、家族になんかなれるわけがない。施設の先生たちは自分の自己実現のために、私たちを利用しているだけ」と、心はつねにさめていた。

「若い職員さんは熱血的な人が多かった。今でいう意識高い系ですね。全然救えないです。子供と真っ向からぶつかり合うとして、結局、子供に殴られて大泣きして辞めるとか。当時、鬱憤を勉強で晴らしていたので、成績だけはよかった。施設に行くような子って、半分くらいが公立高校には学力的に進学できないのです。なぜか私だけは特例で、私立高校に行かせてもらった。施設が期待した公立のトップ高校に行きたくない、熱い人たちの期待に応えたくないという理由で、公立高校はわざと落ちました」
養護施設から2~3年に1人、成績優秀な児童が現れる。トップ公立高校に進学した児童を会報などで大々的にアピールし、大学に進学させるというのが意識の高い職員たちの大きな目標とモチベーションになっていた。

「施設の先生たちには何度も大学進学を勧められたけど、奨学金って借金じゃないですか。今思えば先見の明があったけど、就職できる保証もないのに借金するのはまずいって直観的に思って、だから進路は工業か商業高校に行きたいって希望した。けど、トップ高校に行けという圧力が強くて、滑り止めに私立を受けることで納得してもらいました。与えてもらってなんだって話だけど、やっぱり施設の先生と私たちには大きな溝がありました」

児童養護施設の職員は、福祉職の中では人気だ。希望者が多く、毎年春になると、福祉大学や福祉学科を卒業した目をキラキラさせた若者たちが、“恵まれない子供たちを助ける”というモチベーションで入職してくる。

「みんな育った家庭も円満で、経済的にも精神的にも余裕がある人たち。だから、つねに違和感はありましたね。結局、心の底でかわいそう、哀れな子って思われているのがわかって、最後の最後まで心を開くことはなかった」

別々に育った者が分かり合うのは難しい。

ましてや、円満な家庭で育ち、経済的・精神的にも余裕のある相手となれば、
複雑な心境にもなるだろう。

福祉の厳しい現実を、彼女は目の当たりにした。

依存してくる施設仲間

部屋に来て、1時間半くらい経っただろうか。彼女のiPhone6が鳴った。話をやめて画面を眺めると心から嫌な表情になる。「うーん」と顔をしかめてうなり、結局、電話に出ないで着信を切った。かかってきた電話番号を着信拒否に設定している。電話の相手は、養護施設で一緒に暮らした同級生だった。

「施設のときに知り合った人で、今も関係が続いている友達は1人もいないです。この電話の子が最後です」

携帯を操作しながら、冷たくそう言う。

「とりあえず私は普通に生活できるようになりましたけど、いろんな意味で依存される。精神的に経済的に頼られる。施設の子は中卒か高校中退が多いから仕事がない、結婚しても長続きしない。ほとんど全員が普通の生活ができていないです。“保険証を貸して”ってしつこく頼まれたり、毎日電話がかかってきて“死にたい、死にたい、死にたい”って何時間も泣かれたり。そこまで背負いきれないし、付き合えない」

平田さんは、高校進学と同時にコンビニとファミレス、ティッシュ配りなどのアルバイトを始めた。養護施設は高校卒業で退所しなくてはならない。身ひとつで退所となるので、おカネがなければホームレスとなる。施設の子供たちは高校生になると、部活には入らず、3年後に必ずやってくる独立に向けてアルバイトをする。

児童養護施設 退所

「退所のときは10万円くらい持たされて、身ひとつで出されます。高校卒業して就職までいける子は一握りで、結局、高校に行っても半分くらい中退しちゃう。それで施設を出てそのままフリーターです。生活できないです。本当にみんな経済的には苦しんでいる。そういう現実が小学生のとき、施設に保護されたときに見えたので、私はさっさと自分でおカネ稼げるようになるしかない、ってずっと思っていました」

高校2年の夏、母親が退院した。また一緒に暮らそうという申し出があって、施設を出たかった彼女はそれに乗った。退所したら学費と生活費は自分で払わないといけない。ダブルワークの長時間労働をして月12万円ほどの収入があった。月5万円程度の学費は、自分で払うと決めた。

母親の彼氏、そして、風俗

「母親もアルバイトを始めて、私は3万円を家賃として渡した。そしたら母親はどこかで知り合った男のところに行っちゃって、帰ってこなくなって。しばらくして母親に男の家に呼ばれて、新しいお父さんみたいな感じで紹介された。夜、その男の家に母親と泊まったとき、男が私を触ってくる。胸とか太腿とか、いろいろ。恐ろしくなって絶叫して逃げだしました。隣に寝ていた母親は、見て見ぬふりしていました」

独りで暮らしながら高校へ行き、深夜近くまでアルバイトをした。次は不動産屋がやって来て「家賃未納、すぐに出て行ってほしい」と通告された。毎月母親に家賃補助として3万円を渡していたが、4カ月滞納していた。高校3年の春、学費の納付時期も重なって経済的に破綻した。

「高校を辞めざるをえなくなった。そんなときに家までなくなって、もうどうにもならなくて、ただひとつの選択肢として寮付きの風俗店に行きました。渋谷のピンクサロンです。風俗なんて何も知らないし、恐ろしいけど、仕方ないです。あと何カ月かで18歳って店の人に正直に話したら“17歳って誰にも言っちゃいけないよ”という約束で働かせてもらえた。性体験は自暴自棄になったとき、ナンパされた人としたくらい。ほとんど処女みたいな感じです。それしか生きる手段がない、腹をくくって働いて、1週間くらいで慣れました」

ピンクサロンは時給3000円、1日出勤すると1万8000円。寮は渋谷の徒歩圏で月6万円。ずっと続けていたファミレスのバイトを辞めて、寮から週6日出勤した。ピンクサロンは数ある性風俗の中でも客単価が低く、安価で過酷な労働を強いられる。風俗嬢は誰もやりたがらない。昔から彼女のような訳ありの素人女性が多い職種である。

来る日も来る日も夕方以降になると精液を浴び続け、ふと高校を思い出したとき“どうして私だけ……”と虚無感に襲われた。たまに理由なく、涙が流れてくることもあった。月28日ほど、ほとんど休むことなく働き続けて、月50万円以上を稼いだ。18歳の誕生日を迎える頃、100万円以上の貯金があった。部屋を借りて寮を出た。時給1300円のパチンコ屋のアルバイトが見つかったので、ピンクサロンは辞めた。

やっと安心して暮らせると思った矢先の、母親の失踪。

戻ってきた母親の彼氏による性的虐待。

家賃も学費も未納となって、彼女はすべてを失った。

それでも生きていくために、彼女は体を張った。

風俗を辞めた後、彼女は結婚する。

同じ”養護施設”出身者

パチンコ屋でも休まずにオープンラストで働く。月30万円以上を稼いだが、アパートと職場の往復だけ、まさに働き詰めの生活。21歳のとき、パチンコ屋の同僚だった18歳年上の男と意気投合した。男も養護施設育ち、お互い寂しいこともあって軽い気持ちで結婚した。

「当時、私はもう人生はあきらめていたので、生い立ちが似たような感じだからってだけで結婚した。もし時間を戻せるんだったら、結婚していないです。一緒に暮らすようになって、相手の借金が発覚して。300万円以上です。貯金はあったので、自分で返済できるくらいまで私が肩代わりして借金を減らした。泣いてお礼を言っていたのにしばらくしたら仕事を辞めて、また借金したのでもうダメだと思って離婚しました」

ITの世界では、学歴は関係なかった

24歳。そしてITの仕事と出合う。ITバブルの絶頂期、たくさんの求人があった。

「テクニカルサポートです。インターネットの接続のサポートですね。これ、勉強したらおカネになるかもって直感した。すぐにノートパソコンを買って、独学でネット系の勉強をしました。ネットサービスとか情報セキュリティとかシステムのコーディングとか。ITバブルで時期的にラッキーで。とにかく人が足りなかったので、何か新しいことを覚えればいくらでもおカネになる時代だったのです」

ITの世界では、学歴は関係なかった。資格も急速な技術の進歩に追いつけず、すべて実力の世界。勉強をして実践しながら、派遣登録して高い時給の仕事に次々と移った。最高額は時給5000円、月収100万円を超えたこともある。そしてITの仕事を始めてから11年、彼女は横浜の一等地に新築マンションを購入し、仕事と趣味と充実した日常を送っている。

「私は自力で生活できる手段を身に付けて、誰かに助けてもらおうと思わなかったってだけ。17歳で家がなくなってから、ずっと仕事をしているけど、別に仕事が好きなわけではない。ただ単価が高くて、選択肢の多い仕事を見つけて、これと思ったときに必死に勉強して働いただけです。アンテナを張っていれば、学歴がなくても、カラダを売る以外の手段で貧困から抜け出す隙間とかチャンスはあるはずですよ」

最後に離れて暮らす母親のことを聞いた。5年ほど前、病院のソーシャルワーカーから「もう一度、お母さんと暮らせませんか?」と連絡がきている。

「結局、精神病院に再入院したようです。事情を話して“それでも私に扶養義務はあるのでしょうか?”と言いました。それっきり連絡はこなくなった。正直、自殺して死んでくれたら、すごくホッとします」

平田さんは生涯誰とも結婚せず、出産もしないことを決めている。身寄りのない孤独な身だ。もしものことを考えると仕事を辞めて誰かを頼るという、専業主婦のような選択はできない。不遇続きだった過去を消してくれたのは、誰にも頼らずに経済的に自立できたこと。ただそれだけだった。

派遣社員として、時給5000円もらっていたこともあるという彼女。

それでも、心の闇を埋めるのは金銭ではないのだろう。

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