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三毛別羆事件ーーアンリビバボー獣害史で最も残酷な事件が……さらにその後日談がエグすぎる……

獣害史最悪の災害を引き起こした三毛別羆事件をご存知だろうか? 冬眠に失敗したヒグマが民家を襲い、合計7名の死者と3名の重傷者を出した戦後最も大きな獣害事件として知られている。10名の被害者を出したこの事件に登場するヒグマは体長2.7...
2018/01/20 UPDATE
 
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三毛別羆事件とは

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年(大正4年)12月に北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(現苫前町三渓)で発生した熊害(ゆうがい)事件である。六線沢熊害事件、苫前羆事件ともいう。

冬眠に失敗したヒグマが集落を襲い、死者7名、重傷者3名を出した。日本史上最悪の獣害事件として知られる。

冬眠に失敗して食料が足りない熊が人里に降りてきて、農作物を食い荒らす、というのは昔は珍しくない話だった。

今でも時折ニュースに取り上げられている。

日本でよく遭うクマと言えば、ツキノワグマに代表されるだろうが、ツキノワグマをさらに上回る大きな猛獣がいる。

北海道のヒグマである。


10名の被害者を出したこの事件に登場するヒグマは体長2.7mあり、立ち上がると3mは超える大きなヒグマだ。

大きな熊ほど冬眠しやすいという事例があるのだが、この熊もその例に漏れなかったんだろう。

事件の経緯

初めは畑のトウモロコシの被害だけにとどまった。

しかし11月という遅い時期にクマが現れたことは衝撃だった。

12月9日にヒグマからの初めの襲撃が起こり、1名が死亡、1名が行方不明。

正直な話、Wikipediaの文章が最もわかりやすい説明をしていて、秀逸なのでそちらを読んでいただきたい。

三毛別羆事件(wikipedia)

生き残った少年は、父から両氏になることを勧められ……

三毛別羆事件の後、大川春義は父から猟師になってヒグマをしとめることを薦められた。

当時は子供だったが彼の羆に対する憎しみは強かった。

7名の位牌の前で、犠牲者1人につきヒグマ10頭、合計70頭を仕留めて仇を打つと誓った。


その当時、彼は6歳であった。

事件後、少年は劇的な変貌を遂げる。
(ここで改ページします)

生涯で100頭以上のヒグマを仕留めた名ハンター、大川春義

成人した春義は三毛別羆事件でヒグマを仕留めた伝説的マタギである山本兵吉の教えを受け、

新たにマタギの道へと進んだ。

しかし10年間、彼はヒグマを仕留めることはできなかった。

当時の恐怖が蘇ったのだろう。

しかし1頭仕留めると彼に追い風が吹いたかのようにまた1頭、また1頭と仕留め始めた。

第二次世界大戦で出兵した際も、その射的の腕を活かし、周囲を驚かせたという。

最終的に年に5~7頭を仕留め続け、1977年に目標の70頭を大きく超える102頭を仕留め、

年齢のことなどもあり銃を置いて引退。



そして引退をした1985年、12月9日。奇しくも事件が始まった日と同日であった。

大川春義は三毛別羆事件の「70」回忌の法要に出席。

春義は講演する予定だったので、壇上に立ち一言発した。

「えー……」

その直後、春義は倒れて亡くなった。

春義が犠牲者の霊前で誓った70頭という目標値。

その三毛別羆事件の70回忌。

さらにその事件が起きた人同日に亡くなる……という因縁じみた最期を迎えたのだ。

この話は小説や映画で再現されるほどになった。

そこらのフィクションよりよっぽど物語性の強い当事件は、後日小説や映画にて再現された。

木村盛武著ーー慟哭の谷

吉村昭著ーー熊嵐

戸川幸夫著ーー熊荒れ

また、映画「リメインズ 美しき勇者たち」などで紹介されている。

興味がある方はそちらも一見していただきたい。

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