出典: rr.img.naver.jp
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冬眠に失敗して食料が足りない熊が人里に降りてきて、農作物を食い荒らす、というのは昔は珍しくない話だった。
今でも時折ニュースに取り上げられている。
日本でよく遭うクマと言えば、ツキノワグマに代表されるだろうが、ツキノワグマをさらに上回る大きな猛獣がいる。
北海道のヒグマである。
10名の被害者を出したこの事件に登場するヒグマは体長2.7mあり、立ち上がると3mは超える大きなヒグマだ。
大きな熊ほど冬眠しやすいという事例があるのだが、この熊もその例に漏れなかったんだろう。
出典: dic.nicovideo.jp
初めは畑のトウモロコシの被害だけにとどまった。
しかし11月という遅い時期にクマが現れたことは衝撃だった。
12月9日にヒグマからの初めの襲撃が起こり、1名が死亡、1名が行方不明。
正直な話、Wikipediaの文章が最もわかりやすい説明をしていて、秀逸なのでそちらを読んでいただきたい。
三毛別ヒグマ事件は概要の恐ろしさもさる事ながら、事件を経験した村の少年が熊絶対殺すマンな猟師になって生涯熊を狩り続けて熊殺しマスターになり、事件から70年後の70回忌の式典での講演中に倒れて三毛別事件の同日に亡くなるという因縁とか怨念とかを感じさせる後日談がヤバい
goshuinchou フォローする 2017-10-31 15:08:31三毛別羆事件の後、大川春義は父から猟師になってヒグマをしとめることを薦められた。
当時は子供だったが彼の羆に対する憎しみは強かった。
7名の位牌の前で、犠牲者1人につきヒグマ10頭、合計70頭を仕留めて仇を打つと誓った。
その当時、彼は6歳であった。
成人した春義は三毛別羆事件でヒグマを仕留めた伝説的マタギである山本兵吉の教えを受け、
新たにマタギの道へと進んだ。
しかし10年間、彼はヒグマを仕留めることはできなかった。
当時の恐怖が蘇ったのだろう。
しかし1頭仕留めると彼に追い風が吹いたかのようにまた1頭、また1頭と仕留め始めた。
第二次世界大戦で出兵した際も、その射的の腕を活かし、周囲を驚かせたという。
最終的に年に5~7頭を仕留め続け、1977年に目標の70頭を大きく超える102頭を仕留め、
年齢のことなどもあり銃を置いて引退。
そして引退をした1985年、12月9日。奇しくも事件が始まった日と同日であった。
大川春義は三毛別羆事件の「70」回忌の法要に出席。
春義は講演する予定だったので、壇上に立ち一言発した。
「えー……」
春義が犠牲者の霊前で誓った70頭という目標値。
その三毛別羆事件の70回忌。
さらにその事件が起きた人同日に亡くなる……という因縁じみた最期を迎えたのだ。
そこらのフィクションよりよっぽど物語性の強い当事件は、後日小説や映画にて再現された。
木村盛武著ーー慟哭の谷
吉村昭著ーー熊嵐
戸川幸夫著ーー熊荒れ
また、映画「リメインズ 美しき勇者たち」などで紹介されている。
興味がある方はそちらも一見していただきたい。
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