また、天皇に代わり皇太子さまが国事行為を行う「摂政」については「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」と否定的な考えが示された。
お気持ちは7日夕、お住まいの皇居・御所で収録された。8日午後、宮内庁のホームページに掲載される。天皇陛下がビデオメッセージを公表するのは、東日本大震災後の2011年3月以来、2回目。
現状では天皇に退位は認められていない。政府は陛下のお気持ち表明を受け、内閣官房に置く皇室典範改正準備室を中心に、生前退位を含め、対応について議論を進める方向だ。(島康彦、多田晃子)
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ケ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。
宮内庁ではビデオメッセージが放映された直後に風岡典之長官が記者会見した。風岡長官は「天皇陛下は高齢となった天皇の象徴としてのあり方やお務めについてお話しされた」と説明。「今すぐお務めが難しくなるということではない」とも述べた。天皇陛下が言及した代替わりについては「大喪とご即位が重なれば厳しい状況になることについて、ご経験を踏まえて述べられたと思う」と話した。
陛下は災害の被災地を熱心に見舞った。宮内庁によると、慰問は55回に及ぶ。
「使命感が強い方だからこそ、一つ一つの行事でお疲れになる。今のうちに次の方が継がれるのも私はいいと思います」。今年5月、熊本地震の慰問に訪れた陛下と面会した熊本県益城町の河添ハル子さん(85)は退位に理解を示す。
訪問時、陛下は体育館で約40分かけ、避難者全員に「具合はどうですか」などと声をかけた。河添さんは「健康が一番ですから、陛下には長生きしてほしい。退位されても、皆の心に残ると思います」と話す。
宮城県南三陸町の千葉みよ子さん(69)は8日、仕事を休んで「お気持ち」を放送するテレビに見入った。
東日本大震災の津波で、娘婿や孫娘を亡くした。発生から1カ月半が過ぎた2011年4月下旬、避難所を訪れて両ひざをついて声をかけてきた天皇、皇后両陛下に、励まされたという。「いつまでも続けて頂きたいという気持ちの一方、退位して体調を整え、一歩引いたところから私たちを見て下さる方がいいとも……。半々です」
陛下は戦没者の慰霊にもこだわり続けてきた。戦後70年の昨年は激戦地となった南洋のパラオ共和国を訪問。戦闘で重傷を負いながらも生き残った東京都杉並区の倉田洋二さん(89)は、犠牲となった戦友ら約1200人の名簿を手に陛下と現地で面会した。
青い海に黙禱(もくとう)を捧げる両陛下の姿に「戦争中、『天皇陛下のために』と死んでいった兵士の慰霊を果たそう」という強い思いを感じたという。メッセージを聞いて「もう解放してあげたい」と語った。
「これは沖縄のことも指している」。元沖縄県知事の大田昌秀さん(91)は、天皇陛下が「遠隔の地や島々への旅も天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました」と語るのを聞き、そう感じた。
陛下は皇太子時代の1975年、初めて沖縄の地を踏み、沖縄戦で亡くなった女学生らの慰霊碑、ひめゆりの塔の前で過激派から火炎瓶を投げつけられる事件にあった。それでも訪問を重ね、戦後50年の95年には、沖縄戦の戦没者の名が刻まれた「平和の礎(いしじ)」を完成直後に訪れた。
「お気持ち」について大田さんは「これだけ自分の気持ちを素直に話したのは初めてではないか。人間味があり、とても親しみの持てる話だった」と語る。
障害者やハンセン病の元患者にも、天皇、皇后両陛下は心を寄せてきた。05年には岡山県瀬戸内市のハンセン病療養所「長島愛生園」で、入所者26人と懇談。14年までに全国14カ所の全ハンセン病療養所の入所者との対面を果たした。
隔離目的だった療養所は、へき地にある場合が多い。長島愛生園の自治会長、中尾伸治さん(82)は「よく来てくださったと思う。被災地を含め各地にでかけるのは本当に大変だったでしょう。お疲れになったのではないか」と語った。
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