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松本智津夫は家族を大事にし娘から好かれていた

オウム真理教・松本智津夫は家族を大事にし娘からは好かれていたようです。
2018/07/07 UPDATE
 
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「オウム真理教」教祖・松本智津夫の生い立ち&プロフィール

本名: 松本智津夫(まつもと ちづお)
生年月日: 1955年3月2日
出身地: 熊本県八代市
ホーリーネーム: マハー・グル・アサハラ
ステージ: 尊師、神聖法皇
教団での役職: 代表(設立者)
関係した事件: 坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件など
判決: 死刑(控訴棄却)

松本智津夫の生い立ち&経歴!

世間的にはあまり知られていないと思いますが

麻原彰晃の家系は目の先天性疾患を持った一族でした。

麻原彰晃死刑囚は熊本県八代市高植本町(旧八代郡金剛村)

で1955年3月2日午前3時34分に生まれました。

実家は畳職人で麻原彰晃死刑囚は9人兄弟(6男3女)の第7子として誕生し

大家族の4男でしたが先天性緑内障を持って生まれており

左目はほぼ見えず

右目も1.0ほどしか視力がなかったそうです。

そして、12歳上の長男は全盲であり

5男も弱視と麻原彰晃死刑囚の家系は目の疾患を抱えやすい特性があったようです。

「地下鉄サリン事件」で逮捕された後

麻原彰晃死刑囚が事件を起こした動機について

「障害を持って生まれ差別を受け続けたことによる社会的復讐」だと言われています。

松本智津夫の祖父は警察署長

稀代のテロリストの祖父が警察署長というのも皮肉な話ですが

厳しい家系だったのかもしれません。

麻原彰晃死刑囚の父親は韓国生まれのため”在日朝鮮人説”が浮上したようですが

祖父が戦前に朝鮮半島に渡って警察署長をしていたため

在日説はデマであり日本人です。

父親は先述のように畳職人でしたが

需要の減退を受けて家計が厳しくなり麻原彰晃死刑囚を含む7人の子供も食べ物に困り

両親ともに働いていたものの貧困状態にあったようです。

麻原彰晃死刑囚は1961年4月に八代市立金剛小学校に入学しましたが

先天性緑内障による視覚障害があるため秋頃に熊本市出水町今(現・熊本市中央区水前寺)

にある熊本県立盲学校に転校しています。

麻原彰晃死刑囚は片目は見えていたにも関わらず

学費から食費など生活費まで補助金が出る盲学校に入れられたことに反発していましたが

全盲の長男と弱視の5男とともに両親に捨てられたも同然であり

学校に両親が訪ねてくることは一度もない上に仕送り等も無く

成人してからもこの3兄弟だけ里帰りができなかったそうです。

両親に捨てられた境遇が麻原彰晃死刑囚にテロリストの思想を植え付ける

きっかけとなったのは想像に難くないでしょう。

松本智津夫の嫁と子供

麻原彰晃死刑囚は1978年に

代々木ゼミナール渋谷校で知り合った石井知子(後の松本知子)さんと結婚しています。

麻原彰晃死刑囚は嫁以外の女性とも子供をもうけており、子供は全部で12人いるそうです。

麻原彰晃死刑囚と嫁がもうけた子供が女4人・男2人の計6人います。

松本智津夫の娘4人について

■長女:松本美和。1978年生まれ。ホーリーネームはドゥルガー。
教団での地位は正悟師。
省庁制の際には流通監視省大臣であった。
スーパーでの万引き逮捕歴や銃刀法違反での逮捕歴あり。



■次女:名前は不明。1981年生まれ。
ホーリーネームはカーリー。
2000年1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され
保護観察処分となっています。
その後も長男達の住んでいる龍ケ崎市に在る住居に時々遊びに来ていたといいます。

■三女:松本麗華:1983年生まれ。
教団での地位は麻原に次ぐ正大師でホーリーネームはアーチャリー。
2004年3月に合格した和光大学から入学拒否されたとして提訴し
東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じた裁判がありました。
2015年3月20日、地下鉄サリン事件から
20年目の日に松本麗華名義で手記『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』を上梓しています。


■四女:名前は不明。
1989年生まれ。
2010年、ペンネーム「松本聡香」名義で著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(徳間書店)を刊行しています。
ひかりの輪はこの著書に誤りが含まれているとしています。
2014年のインタビューにおいても、自殺未遂が続いていることを明かし
「死にたいというよりも死ななくてはいけない」
「オウム事件について知ってからは、幸せとか喜びを感じるたびに、オウム真理教は普通の人のそういう喜びを奪ってしまったのだなと感じざるをえない」
と語りました。

松本智津夫の息子2人

長男:名前は不明。1992年生まれ。
四女と次男同様学校に籍を置くことが許されず
ほとんど学校に通わせて貰えなかったといいます。



次男:名前は不明。
1994年生まれ。
2006年に春日部共栄中学校に合格したものの
「麻原の息子」だという理由で入学を拒否されています。



息子2人の現在はどうなっているか不明ですが
麻原彰晃死刑囚の息子ということで学校に通わせてもらえなかったことから
だいぶ苦労していることはわかります。

松本智津夫は家族は大切にしていた

最終解脱をした頃の麻原彰晃死刑囚は

妻と3人の娘たちと貧しいながらちゃんと

コミュニケーションを取っていたようです。

麻原彰晃死刑囚は家族全員で一つの部屋で寝て

食事は肉が買えないためグルテンを肉状にして代役したり

ホットプレートで野菜バーベキューをするなど普通の家庭のようなコミュニケーションをちゃんと取っていました。

しかし、自宅には宗教がや仏像が置かれた瞑想室があり

麻原彰晃死刑囚は毎日この部屋にこもって修行をしていました。

ちゃんとした祭壇を買うお金は無かったため

麻原彰晃死刑囚はちゃぶ台を祭壇に見立てていたようで

「形ではなく心が重要なんだ」と常々口にしていたようです。

この祭壇は麻原彰晃死刑囚の原点にもなっていたようで

後に「オウム真理教」として教団が大きくなってからも使用していたそうです。

東京都渋谷区でヨーガ教室を開いた麻原彰晃死刑囚は

ほとんど家に帰ることが無くなり

たまに帰ったとしても弱視のためテレビにくっついて野球中継を観ていたそうです。

松本智津夫は娘たちからは好かれていた

娘たちも麻原彰晃死刑囚の宗教的な影響を十分に受けていたからであり

次女などは麻原彰晃死刑囚が帰宅すると

「太陽のない世界に太陽が来た」

と発するなど一般的な家庭からすると異様だったことでしょう。

ほとんど世田谷区のヨーガ道場に住み込むようになっていった麻原彰晃死刑囚は

たまに家に帰ると3人の娘たちが大喜びで取り合いになっていたようです。

しかし、妻の松本知子は宗教にのめり込んで家庭を顧みない夫に不満を溜め込んでおり

顔を合わせればいつも麻原彰晃死刑囚に不満をぶつけていたようです。

妻に文句を言われても麻原彰晃死刑囚は言い返すことひとつせずにやり過ごしていたようですが

松本知子も宗教を信じている様子は無かったものの

麻原彰晃死刑囚の宗教関連書の代筆をするなど協力的な面も見せていました。

麻原彰晃死刑囚は娘たちへ普通の父親としての役割も果たしており

「蚊に刺されると痒いけど、蚊も命を持っているんだよ。私たちも生まれ変われば蚊に生まれるかもしれない」

と命の尊さを教えたり、発展途上国に家族旅行をしに行って

「世界には家に住めない子も食べ物を食べられない子もいるんだよ。食べ物を粗末にするのはやめようね」

と正しい教えを持って教育をしていました。

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