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サンドウィッチマン伊達 売れ出した理由語る

サンドウィッチマンが売れたきっかけや隠された秘話などを伊逹さんが語ってくれました!!
2018/04/17 UPDATE
 
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サンドウィッチマン・伊達氏が語る、コンビ結成10年目にして世に出られた理由

サンドウィッチマン伊逹

生年月日: 1974年9月5日 (年齢 43歳)
生まれ: 宮城県 仙台市
身長: 170 cm
配偶者: 熊谷 麻衣子 (2009年から)
学歴: 仙台市立仙台商業高等学校
TV/映画: 女子アナの罰、 内村さまぁ~ず THE MOVIE エンジェル

出典:

■どんなにアウェーな場所でも、勝負は投げなかった



先が見えないことをやってみるというのは、やはり怖いですよね。

僕は根が小心者だから、なおさらですよ。

高校のラグビー部時代からのつきあいの富澤から

「コンビを組もう」と最初に誘われた時も、

「いいよ」なんてとても言えなかった。

富澤は高校卒業後、芸人を志すようになって、

相方は僕しかいないと見込んでくれたみたいなんですけどね。

当時僕は介護用品の会社に就職して2年目で。

営業職として仙台本社で

一番大きな地区を任されたばかりだったし、

会社には親父のツテで入ったから簡単に

辞めるわけにはいきませんでした。

それに、正直、勇気が出なかった。

もともと人を笑わせるのは好きで、

芸人の世界に興味はあったけど、

芸能界なんて雲の上の世界でしたから。

富澤はその後も何度も誘ってくれましたが、

煮え切らない返事しかできませんでした。

(ここで改ページします)



そんな僕が一歩を踏み出したのは、

大好きだったおじいちゃんが

亡くなったことが大きかったです。

80歳を過ぎていたし、入院もしていたから、

覚悟はしていたつもりだったけれど、

早朝に急に亡くなって。

「ああ、人ってこんなにあっけなく死んでしまうんだな」

と感じて、「一度きりの人生なら、悔いのないようやりたいことをやろう」と思うようになったんです。

5年勤務した会社を辞め、

富澤と夜行バスで上京したのが24歳の時。

アルバイトをしながらライブに出ましたが、

芸人の仕事はほとんどなかったです。

たまに仕事が入っても地方営業ばかりで、

300人定員の会場で3人のお客さんを

前に漫才をしたことも。

芸人仲間と笑いについて語り合ったりして

気持ちだけは熱かったものの、

実態は「自称お笑い芸人」のフリーターに過ぎませんでした。

仙台を出た時は「取りあえず3年頑張ってみよう」と

考えていたのですが、3年なんてあっという間に過ぎて、

気づいたら30歳間近でした。

30歳と言えば、親父が僕の父親になった歳です。

地元で就職した同級生たちも家族を持ち、

一人前の社会人として歩んでいました。

一方、僕たちの芸人としての収入は年間数万円。

「結果を出さないまま地元に帰りたくない」という思いだけ

でライブ活動を続け、お客さんには笑ってもらえるようになったけれど、

テレビに出るチャンスは一度もありませんでした。

芸人として売れないから、

生活のためのアルバイトが忙しくなって、

練習もそこそこにライブに出るという悪循環。

「このままではダメだ。1年間必死でやってテレビに出られなければ、解散しよう」

と富澤と話し合い、2005年の1年間を勝負の年に決めました。

まずやったのは、借金をしてアルバイトを減らし、

ライブを以前の3倍の月15本に増やすこと。

とにかくたくさんのお客さんにネタを見てもらおうと、

イベントやオーディションも機会を見つけては出ました。

そんな時に出演したあるイベントにたまたまカメラが入り、

テレビ局のプロデューサーの目に留まって

人気お笑い番組『エンタの神様』に出演。

評判が良く、『エンタの神様』には

繰り返し呼んでいただけるようになったものの、

知名度は上がらなかったのですが、

08年の『M-1グランプリ』優勝をきっかけにテレビ出演が増えました。

『M-1グランプリ(M-1)』は敗者復活戦から

優勝したこともあって注目され、

いろいろなインタビューで優勝の理由を聞かれましたが、

理由はわかりません。『M-1』には02年から毎年出場していたし、

その年だけ特別に何かを変えたというわけでもなかったから。

でも、結果を出せた理由がひとつだけあるとすれば、

僕たちはどんなにアウェーな場所でも

勝負を投げなかった。まあ、売れない時期が長過ぎて、

アウェーに慣れっこになっていただけなんですけどね(笑)。

(ここで改ページします)

■お笑いの仕事が成り立つ世の中というのは、すごく幸せな状況



『M-1』優勝後、

いろいろなテレビ番組に呼んでいただけるようになって、

仕事量は以前の10倍に。

しばらくは目の前のことをこなすだけで

精いっぱいでわけのわからない状況でした。

テレビに出ると、トーク番組で上手に話を回す人もいれば、

ドラマやクイズ番組で活躍する人もいる。

力のある芸人さんばかりで圧倒されたりもしましたよ。

そんな中で感じたのは「ここだけは負けない」と

思えるものを持つ大切さ。

僕たちにとってそれはなんだろうと考えたときに、

「やはりネタだよな」と。そこに気づいてからは、

以前にも増して漫才やコントに力を入れるようになったし、

ジャンルの違う仕事をやるときもブレがなくなりました。

得意なものを見つけるためには、

まずはいろいろやってみることが大事ですが、

「好きこそものの上手なれ」というのはあると思います。

会社員だと好きなことをやるのは

難しいと思っている人もいるかもしれないけれど、

そんなことはないですよ。

僕は人と話すのがとにかく好きだったので、

会社員時代は営業をやっていました。

好きだから頑張れたし、結果的に営業成績もそこそこ良かったです。

人の笑顔を見るとうれしいし、

みんなが笑っている場というのは気持ちいい。

そういう場にずっといられたらいいなあと思って

芸人を続けてきましたが、

東日本大震災で僕たち自身が被災してからは

自分たちの仕事の意味をより考えるようになりました。

(ここで改ページします)



お笑いって、一大事の渦中では何の役にも立てないんですよ。


気仙沼市でロケ中に地元の皆さんと津波から逃げて、

東京に戻ってすぐ『東北魂』と銘打って

被災地支援活動を始めました。

地震が起きた3月のうちに数回被災地に入りましたが、

笑いたいと思っている人なんて誰ひとりいなかったし、

とてもお笑いをやるような状況じゃなかった。

でも、半年たったころに思い切って仙台でライブをしてみたら、

1000人もの人が来てくれて。

昨年(12年)夏には被害がより深刻だった大船渡市でも

無料チャリティーライブをしましたが、

700人が集まってくれました。

被災された皆さんも時を経て

ようやく自分の中に節目を見つけて、

笑いにきているのかなあと思いましたね。

ビートたけしさんがおっしゃっていたんですけど、

「人ってある程度身の周りの環境が整っていないと、笑えないんだよ」って。

なるほどなあとうなずいたんですけど、

お笑いの仕事が成り立つというのは

すごく幸せな状況なんですよね。

ありがたいなあとしみじみ感じていますし、

笑いを求めてくれる人たちをもっともっと笑わせたいと思います。

よく皆さんから「芸人さんは楽しそうな仕事でいいですね」

と言われますが、僕にとってはそれが最高のほめ言葉なんです。

だって、芸人というのは、「遊んでるなあ」「楽しそうだな」と

お客さんから思われるのが仕事ですからね。

舞台裏ではネタ合わせがうまくいかなくて試行錯誤したり、

いろいろあるけれど、そこを感じさせないのがプロだと思います。

これから社会に出る人には、

仕事を一生懸命やるのも大事だけど、

社会で起きていることに関心を持ってほしいですね。

例えば、被災地の今の状況がどうなのかといったことも

もっと知ろうとしてほしい。

「いまだに震災のことを話してるの?」

なんて言う人もいるけれど、

東北の復興はまだ進んでいないし、

そのことがこれからの日本の社会全体に

与える影響は大きいですよ。

東北のことに思いをはせられるかどうかで

社会人としてのあり方や、

仕事への姿勢だって変わってくると思います。

あとは、よく笑うって大事だと思うなあ。

後輩とかを見ていても思うんだけど、

別に僕が言ったことに笑ってくれるということではなくて、

ニコニコしている人のところには

みんな寄ってきますよね。顔の表情ってすごく大事で、

やわらかい表情をしていると

先輩や後輩にも好かれるものですよ。

いかがでしたか?



芸人魂とともに、

人としてとても人間味の良い

コンビだと思いませんか?

これからもこの二人を

あたたかく見守りましょう!

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