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日本の紙幣。【福沢諭吉・樋口一葉・野口英世】って何した人??

日本紙幣の人々。一体何した人をまとめてみた。
2016/05/06 UPDATE
 
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1000円札/野口英世

生年月日: 1876年11月9日
生まれ: 福島県 猪苗代町
死没: 1928年5月21日, ガーナ アクラ

黄熱病や梅毒等の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がった野口英世。

野口英世を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い。

医師を目指すきっかけとなった左手の大火傷

1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する
1891年(明治24年)、左手の障害を嘆く彼の作文が小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。
その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。
この手術の成功に感激した事がきっかけで医師を目指す。

ケガの功名で学問を志した?

博士は野口家の長男でした。因みに、兄弟にはお姉さんと弟がいました。
当時は、長男が家業(農業)を継ぐのが一般的でしたが、左手を火傷したため、力作業が伴う農業を諦めたそうです。
博士は、幼少の頃から頭が良く、太陽の位置をみただけで時刻が分かったといいます。
お母さんは、「自分の不注意で左手を火傷させてしまった」という慙愧の念を持ち続けていました。
そのため、「左手の火傷のため、この子は家業(農業)を継ぐことは出来ないのだから、何としても学問で身を立てさせてやらなければならない」と決意し、自らが人の何倍も働くことにより、博士を家事から遠ざけ、勉強に集中させました。

並外れた集中力で数ヶ国語をマスター

会陽医院で医学のほか、英語・ドイツ語・フランス語の勉強をしましたが、並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3ヶ月で読めるようになったそうです。
博士は、一度引いた語彙は全て覚え、二度と同じ語彙を引くことはなかったそうです。
また、医術開業試験に合格した後、中国(当時は「清」)でペストが発生したことから、博士も医師団の一員として派遣されましたが、中国への8日間の船旅の中で、博士は、中国人の船員と手真似を交えて世間話をしているうちに、簡単な日常会話をマスターしてしまったという逸話も残っています。

5000円札/樋口一葉

生年月日: 1872年5月2日
生まれ: 東京都 東京 内幸町
死没: 1896年11月23日, 東京都

樋口 一葉は、日本の小説家。

「一葉」はペンネーム

一葉の本名は“奈津”、“夏子”とも書いたそうですが、ペンネームを考えたとき、達磨大師は足がなくて一枚の葉の葦舟に乗って揚子江を渡った、との故事をもじって、“足”を“銭(あし)がない”と置き換え“一葉”とつけたそうです。

三列目の左から三番目が樋口一葉

手を隠しているのは、当時の迷信で“手が写ると魂を取られる”と思われていました。明治の頃の肖像写真には普通にあるものです。

初の「写真を参考にした」「女性の」肖像画

新渡戸稲造や福沢諭吉など、これまで紙幣に印刷されていたのはほぼ男性だけでした。実は、貨幣の作成にあたっての合理的な理由がありました。

写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。偽造防止に利用される髭や顔の皺が少ないため版を起こすのに手間取り、製造開始は野口英世の千円紙幣、福澤諭吉の一万円紙幣より遅れた。
出典: laughy.jp

消去法で樋口一葉

日本女性の偉人ということで、選ばれたのはどうやら消去法だったようですね。
旧札の新渡戸稲造から女性という大胆なデザイン変化は、無事国民に受け止められました。

今ではしっかり遊ばれています。これもお札になった人の定めですね。

惜しくも樋口一葉に敗れた、他の女性肖像画候補

男女平等を謳う社会の流れによって、新札にも女性を抜擢しようという動きが強まりました。
樋口一葉さんのほかにも、様々な女性が候補として選ばれたそうです。


清少納言

「枕草子」の作者として、樋口一葉さん以上に権威ある存在でしたが、写真がないということで見送りに。

与謝野晶子

女流俳人として有名でしたが、発券当時の国会に彼女の子孫がいたということで、政治的中立を保つ意味で却下されたそうです。

10000円札/福沢諭吉

生年月日: 1835年1月10日
生まれ: 大分県 中津市
死没: 1901年2月3日, 東京都

日本の武士、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校、商法講習所、神戸商業講習所、土筆ヶ岡養生園、伝染病研究所の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。

何をした人?

西洋文明を著作、学校、新聞を通して日本に輸入しました。
日本を自立できる国にしようと民間で力を尽くし、人々に影響を与えました。
代表著作は「学問のすすめ」「西洋事情」「文明論之概略」他。

学問の大切さを説いた教育者

『天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず』。これは、「人はみな平等である」という意味。この言葉を説いた明治時代の教育者、福沢諭吉は、日本にいち早く西洋の文化や考え方を伝えました。現在の一万円札にえがかれている肖像画(しょうぞうが)が、福沢諭吉です。福沢諭吉は学問の大切さをみんなに説きました。

まず英語を学ぶ

およそ150年前、福沢諭吉は西洋の文化や考え方を広く日本に伝えました。開国とともに、日本には西洋の文化が一気に流れこんできました。横浜や神戸などには外国人の姿が目立つようになります。福沢諭吉は横浜を訪れた経験から、西洋文化を理解するには英語を学ぶことが大切だと気づきました。そして、いち早く英語を勉強した諭吉に大きなチャンスが訪れます。

西洋の国から学んだこと

アメリカへ行った翌年、諭吉はヨーロッパに行く使節団にも加わり、イギリスなどいろいろな国を見て回りました。イギリスの議会を見学したときのおどろきをこう書きのこしています。「対立する二つの政党が政治のことで喧嘩(けんか)をしている。なのに、議会が終わると、同じテーブルで酒をくみかわし、食事をしている」。議会では自分の考えをぶつけあい、議論が終われば仲間としてつきあう。このように、意見の異なる人たちを尊重する精神を、諭吉は西洋の国から学びました。

慶應義塾を開く

福沢諭吉は教育にも力を注ぎました。1858年、諭吉は自分の財産をつぎこみ、塾(じゅく)を開きます。のちの慶應義塾(けいおうぎじゅく)です。この塾には、身分に関係なく学問を志す人たちが集まり、教育を受けました。江戸の町で新政府軍と旧幕府軍が戦ったとき、大砲(たいほう)の音がひびくなかでも諭吉は講義を続けます。そして塾生たちに、世の中で何が起ころうとも学ぶことをやめてはいけないと説いたといわれています。

『学問のすゝめ』で学問の大切さを説いた

明治時代、服装や食べ物、建築など、西洋文化が日本中に広まりました。これを「文明開化」といいます。日本の暮らしが大きく変わるなかで、諭吉は学問の大切さを人々に広めようとしました。そこで書いたのが『学問のすゝめ』です。その中で諭吉は、「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」「一身独立して一国独立する」と説いています。人間はみな平等であり、それぞれの国民が自立してこそ国は一人立ちする。そして、国民一人ひとりが自立するには、学問でさまざまな知識を身に付けることが重要であるとうったえたのです

日本に保険の概念を取り入れた

日本の生命保険事業の始まりは、慶応義塾大学の創始者である福沢諭吉の著書「西洋旅案内」でヨーロッパの近代的保険制度を紹介したことがきっかけです。

おまけ

今はなかなか見る機会が少なくなった...

2000円札

第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)と西暦2000年(ミレニアム)をきっかけとして、1999年(平成11年)に当時の小渕恵三内閣総理大臣の発案で[注 1]、2000年(平成12年)7月19日に森内閣のもとで発行された。

表面 ー 守礼門

守礼門(しゅれいもん)は、沖縄県那覇市首里にある首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)である。日本城郭でいう首里城の大手門に値する。柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。
第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使が琉球に来た際には、国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていた。沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には沖縄県指定有形文化財となった。

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