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ルイ17世の最期が悲しすぎる。ネット上では末路にトラウマ続出!?

ルイ17世の最期があまりにも残酷かつ悲しすぎると話題に!?
2018/03/22 UPDATE
 
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17世の最期が悲しすぎると話題に!Twitter上でトラウマ続出!?

私たち人間など命ある者の最期は、

どんな終わり方であっても悲しい。

出来るなら穏やかな最期を迎えたいのは誰しも思うもの。

しかし、歴史上を見ると穏やかな最期を迎えられずして

この世を去る人物も少なくはない。

人間いつかはこの世を去らねばなりません。そのときは、できるだけ穏やかなものにしたいですよね。
しかし、歴史を見ていると、そうもいかない時代や立場の人がたくさんいたのもまた、悲しい事実です。

フランスの王族・ルイ17世もその一人でした。

あれ?「ルイ16世までで終わりじゃなかったの?」と

思う人も多いかもしれません。

因みに〇世は「親や先祖と区別がつかないからつける」もの

ルイ16世息子が同じルイならば王様だろうとなかろうと17世。

1795年(日本では江戸時代・寛政七年)の6月8日、フランスの王族・ルイ17世が亡くなりました。

「あれ、ルイ16世までで終わりじゃないの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。
○世というのは基本的に「親や先祖と区別がつかないからつける」ものなので、ルイ16世の息子が同じ”ルイ”ならば、王様であろうとなかろうと17世になるわけです。

ルイ17世が生まれたのは1785年で亡くなられたのは1795年。

つまりルイ17世はわずか10年しか生きていませんでした。

そうです、たった10年で「幸せを感じたことが一瞬でもあったのだろうか?」と

言えるとても酷いものだったのです。

彼はルイ16世とマリー・アントワネットの息子で将来有望の王太子だったのです。

彼はルイ16世とマリー・アントワネットの息子だったので、当然のことながら生まれると同時に王太子になりました。容姿も性格も愛らしかった17世は使用人や貴族たちにも愛され、将来有望と思われました。多少神経質なのが玉にキズではあったようですが、賢さの裏返しでもあったことでしょう。

彼が生まれ4年に1789年のフランス革命が起き、運命は一転しました。

フランス革命はいわゆる「気に入らないやつは殺せ」という悲惨な状態。

ルイ16世は仕組まれてしまい市民を裏切り逃げ出したと噂され、市民からの扱いは酷くなるのでした。

そして、父であるルイ16世は処刑されてしまい、その矛先が息子のルイ17世に向けられた。

ルイ17世は数々の虐待により精神的肉体的に貧弱になり直す医者も居ませんでした。

決定的に状況が悪くなったのは、父であるルイ16世が処刑されてからのことです。当然のことながら17世が王様になるわけですが、幽閉の身では戴冠式ができるわけもなく、名ばかりの王でした。
体調を崩しても医師に診てもらうこともできなくなり、これ以降ルイ17世は病弱な体になってしまっています。

そして、虐待が収まることなく続き、鎧戸と鉄格子の

はまった暗い部屋に閉じ込められました。

次第に肌は灰色がかり、頬はこけ、目はぎょろりとしていた。

体中に青・黒・黄色のみみず腫れができていて、爪も異常に伸びていた。

そして、ついに歩けなくなっていしまい、部屋を移されてから2日後の6月8日、

激しい呼吸困難を起こした後に亡くなりました。

わずか10年の人生だった。

その為、ルイ17世というのは世間にあまり浸透されませんでした。

これがTwitter上に大きな反響を呼び話題になっています。

バラスはルイ17世の衰弱ぶりとあまりにひどい環境に驚き、人を雇って部屋の掃除や着替えをさせ、医師にも見せてくれました。
そのときの記録によれば、「肌は灰色がかり、頬はこけ、目はぎょろりとしていた。体中に青・黒・黄色のみみず腫れができていて、爪も異常に伸びていた」とされています。
部屋を移されてから2日後の6月8日、激しい呼吸困難を起こした後に亡くなりました。

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